日本刀が主戦武器として使われた歴史はない
空手と日本刀、トンファーと日本刀などの演武は行われるが、日本刀も空手も所詮は遊びとしての芸事で、戦場での武器となり得るものではない。それにしても日本刀に対する誤解、空手に対する誤解から、世界で空手類似の練習を行う軍隊も多い。
日本刀が戦場での補助の武器として使われたことはあるが、主力として使われたことはない。中世における主力の武器は何んといっても弓矢が第一、続いて薙刀だった。槍が薙刀に勝ることが知られるようになって、長刀は槍にとって代わられた。種子島をとおして鉄砲が伝来すると、鉄砲は弓矢を上回る武器となり、近世に入って行く。
剣豪「宮本武蔵」は関ケ原に参戦したことは知られているが活躍した話は聞かない。日本刀は近世には武士の象徴となり、武士の魂と言われたが、日本刀で戦争をすることはなかったようである。ただ、刃物としては優れた性能を持っていたようで、中国などの王様の剣が日本刀だったりした。これは高炭素鋼(ハイカーボン鋼)が日本で世界に先駆けて開発され、ヨーロッパを四百年程度引き離していた。
八幡船が中国沿岸で海賊行為を働き、日本刀が威力を発揮したことは知られているが、海賊行為は戦場とは違うだろう。
日本刀が使われた大規模な戦場は、西南戦役で西郷軍の抜刀隊と警視庁抜刀隊による田原坂での戦いである。当連盟意を創設した中村孝初代会長のご先祖は、この田原坂の戦闘で戦死されている。
次いで大規模な戦いは、桜田門外の変で行われた水戸浪士16人と、大老井伊直弼の護衛隊数十人による戦いである。護衛隊は雪のため刀の柄に覆いを被せていたようで、応戦が間に合わず、井伊直弼は切られ、彦根市と水戸市は第二次大戦が終わるまで敵対関係にあった。
このほかには、渡辺琢磨に助勢して仇討ちを行った荒木又右衛門とか、赤尾浪士の一人堀部安兵衛の仇討ちなど、戦争とは言えない程度の歴史しかない。