河上一雄前体協会長は、都立日比谷高校長、全国高体連会長などを歴任された偉大な方で、学識経験者として武蔵野市体育協会会長をされました。
本連盟との関わりは、中村孝初代連盟会長のお別れ会では本連盟の要請を快諾され感銘深いご弔辞を頂きました。 また本連盟が存亡の危機に瀕した事件が発生した時、本連盟の存続に多大なご尽力を賜りました。
体協理事会などでご挨拶される内容は、スポーツについての世界的な視野からのお話しなど、さながら大学の講義のような内容で、伺う度に深い感銘を受けました。ただ大変残念なことに先生は風邪こじらせて入院され、平成29年1月13日にご逝去されました。
先生は上部団体の会長であり本連盟の役員ではありませんが、先生のご高恩を謝し、先生の思い出をここに記載します。
1932念生まれ85歳。初代中村孝会長の親友。中村会長の跡を継いで平成25年~28年半ばまで約三年半ほど連盟会長を務めたが、将に将たる器の中村会長と違って、力不足で連盟内は常に紛糾して不遇だった。
全日本空手道連盟理事、全空連関東地区幹事長、全国空手道連盟事務局長などを務めたが、初期の空手道競技の育成に務め、関東高体連空手道部設立に関わり、関東高等学校空手道大会などを創設する一員となっていた。
こども達への空手指導では、全日本少年武道錬成大会で、静岡県大民塾などと競って14回全国優勝を果たした。
この原動力となったのは、金城、中村、三谷と続く唐手、首里手の研究を通して編み出した上段前手突き、上段追突きの競技技術があった。今は誰もおおかた知っている技だが、これを編み出した昭和の末期には、ほとんど知るものもなく、今でもこの技の淵源を知るものは少ないだろう。
上段前手突きは本部朝基が得意としたと考えられる技でナイファンチが示唆する技だが、これを「刻み」と呼ぶ人たちもいるようだ。刻みというのはボクシングのジャブ(リードパンチとも言う)から出た言葉のようだが、ナイファンチの前手突きはリードパンチでは無く、ボクシングで言えばノックアウトパンチで、ボクシングとは思想が異なる。もう一つの競技技術である上段追突きは、ピンアン2段が示唆する技で金城先生はこれに精通しされていた。
三谷二代会長が尊敬して止まない二人の偉人
前術の故河上一雄体協会長がその1人である。だからここに写真を載せて記事を掲載した。河上先生は単に本連盟存続の恩人と言うだけでなく、このような市レベルでの体協会長は二度と現れないだろうと考えられる、真の意味での学識経験者、学者であった、
もう1人の方は、現在本連盟の名誉会長をお願いしている土屋正忠先生である。本連盟存亡の危機に当たって、最初に救って下さったのが前副会長熊谷純理先生の多年の知己でもある土屋先生だった。それだけではなく人柄のすばらしさに感銘を受けたので後述する。